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子ども達が一日で完成させた、パレットを使った基地作り

野遊や土歩の友達はうちに遊びに来る時には、武器作りだったり基地作りだったり、何かしら作りたい。 夏休みには毎日のように来てる子もいた。


昨日はパレットで基地作り。 野遊がリーダーでアレコレ指示しなからやる。


パレットをインパクトでビス留めすると簡単に枠ができる。


壁には畳屋からもらえる廃材のゴザをガンタッカーで留める。 これもあっという間。


屋根にはパレットの上に敷く養生シート(プラスチック製)。 これで完成。

作業時間はしれてるけれど、コードリールや脚立、様々な道具類を出してきたりする所から。 材料の廃材も僕が建築用に仕分けしてあるの以外の焚き物用のコーナーから持ってくる。 野遊と土歩は慣れてるので、阿吽の呼吸で連携する。 友達もスイッチが入り、やたらとテキパキ動く。

既に子どもたちは「作業ハイ」を味わっている。 それが、やらされたり、決められた事だったりしない前提があるから。

クリエイトな作業が全てだ。 自分の意思で自由に作れる。 そして動きだして、やればやる程もっとやるというループに入るのだ。

ナゼ廃材天国という現在に至るまで、一人でやり続けられるのか? 業者も呼ばないし、重機もリースせずに延々と作業が出来るのか? 廃材建築はもちろんのこと、田植えや稲刈りもしかり、一軒目の家を建てる前の竹藪の伐採や根の除去、陶芸の窯を作る時には8tの粘土を毎日クワで錬り続けたり。

一人ぼっちで先の見えない作業に、心が折れるという表現を聞いた事がある。 実際には心が折れたりはしないのに何でそんな表現が生まれるのか?

一言で言うと教育の弊害だ。 「こんなことやってていいのか?」 「人からどう評価されるんだろう?」 「本当に出来るんだろうか?」 これらの刷り込みは生まれた時から家族ぐるみ、社会ぐるみで始まる。 そして、保育園、幼稚園、6、3、3、4、という比較と競争の教育。 結果こそ全てという、歪んだ成功論理。

そう。 思い込まされてるのだ。 自分なんて大したことは出来ないんだと。

一部の評価される者と多数の評価されない者。 それを生み出すのが今の競争社会。 そして、作られたヒーローを崇めることで何となく疑似満足に浸る。

違うぞ。 断じて違う。 そんな構図に押し込まれるな!

戦って疲労困憊して勝利を勝ち取るという考え方は古いのだ。 競争や戦いの狂った所から抜けてしまえ。 やり方は簡単、「やーめた。」と言うだけだ。

かと言って、無気力にシラケてるのは尚退屈。 他と戦うエネルギーを自分のために思いきり使え。

他人と比べない、人からどう思われるかと気にしない。 敵がいなくなれば、文字通りの無敵状態。

もちろん最初からそういう境地で始められる訳ではない。 やってるうちに段々となってくる。

この子どもたちのように無条件に楽しんでたら。

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