「自給自足合宿」に向けて早目に妹の雅が帰廃した。 あっこちゃんと料理の事や畑の事に関しての入念な打ち合わせのため。
今日は博之さん、きょこさん、しょうたくんが集まり、直前のミーティング。 参加者のみんなは21日から来る。
昨日は中秋の名月がバッチリの天候だった。 夜ごはん作りと並行して団子作り。
高瀬の河野さんの米粉で。 うるち米とモチ米を混ぜて、団子用にしてくれてある。 うるち米だけではバサッとするので、モチ米が入ると美味しい。
まず、米粉に熱湯を入れて混ぜる。 それを蒸し器で十分に蒸す。 蒸せたら、手水を付けながら丸めていく。 という至って簡単極まりない工程。
丸めたらきなこをまぶす。
お月見らしく、台付きの器に盛った。
醤油と自家製米飴のみたらし餡も作った。
作るのも楽しいけど、子どもたちは夜に外でお団子を食べるのが楽しい。 いや、食べるのは一瞬。 食べるよりも、外で遊ぶのが楽しいよう。 暗い中走りまくったり、パイプハウスの倉庫の屋根に上ったり。
ほんと子どもって、ちょっと珍しい状況になると超テンション上る。 何も、お金をかけたり特別な所に出かけたりしなくていい。
大人だってそう。 毎日毎日同じことの繰り返しで楽しい訳ないぞ。 ルーティーンワークから抜け出し、自由を得る。 当然そこにはリスクや不安が付きまとう。
そこだ。 そこから一歩踏み出せる者とそうでない者の違いは何か?
今回の自給自足合宿にしても、東京や鹿児島という遠方から参加費も払って参加してくれてる。 彼等は一歩踏み出してる。 動き出した者が更に、先輩のウチの門を叩く。 そうなると益々動きは加速する。
そう、出会いやチャンスは動き始めた者にはジャンジャン来る。 これは宇宙の絶対的な法則なのだ。 それを実証した僕が保障する。 絶対だぞ。
何も、四国の廃材の家まで来なけりゃならない事はない。 自分のスイッチの入るジャンルって各々違う。 そのジャンルの「凄ぇーーー!」と思えるぶっ飛んだ先人に直接会え。 そして、その者の創る空気を感じるのだ。 ここで言う「凄いと思える者」というのは、社会的な成功や地位、名声とは無関係だ。 だって、自由になるという事はこの社会の「アホらし、、、。」と感じる中枢から離れる事だからだ。 真に素晴らしいと「本当の自分」というマニアが心の底から歓喜しなければならない。 よって、他の者の評価とは無縁なのだ。
根本は「忙しくなる事」が最大級の害悪に他ならない。 折角、会社辞めて自由になったのに、金に困って派遣に忙しくなるんでは本末転倒だぞ。 もっと言うと、半農半Xの生活を目指して、Xが事業化して忙しくなり過ぎて、手作り料理が毎日出来なくなるとか。
毎日の生活ありき! 薪でご飯炊いて手作りの梅干しや漬物と手前味噌の味噌汁を飲む。 これが到達点でもあり、そこから自分の使命が始まる出発点でもあるのだ。
常にソコを意識しないとブレる。 何のための「自給」なのか? 国の自給率が下がって、経済恐慌になって、輸入が止まって、南海大地震が、、、。 そんな「状況」から入る気持ちも分かる。 じゃあ、それが改善されたら辞めるのか?
未だに政府などという架空の存在の団体の一挙手一投足に踊らされてるんじゃあないぞ。 辞められるのは「自分」じゃないからだ。
退屈極まりないルーティーンワークから自由になる。 定年退職後の親父級の生活をしてみるとよく分かる事がある。
毎年季節は巡る。 田んぼの作業はタイミングを逃してはならない。 漬物だってそう。
実は、繰り返しにも見えるこの大いなる循環。 それは決して終わる事のない。 本質は繰り返しとは全く異なる。 自分の命を全うする程、この循環に入ることが出来る。 命をないがしろにするという事はここから分断してしまう行為なのだ。
例えば、放射能、添加物、権力、大量生産、、、。 これら全て「分断」するもの。
全部頭に「脱」をつけろ!
繰り返しに流されてるのか? 循環の中の一部になれるのか?
自分で決めろ!!!
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