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「アートでたんぼ15th」に出店してきた

今年で「アートでたんぼ」は15回目。 僕らが三豊市の河野さんの所で廃材ハウスを建てて、自給自足生活を始めたのと時を同じくして始まった。


今年の「アートでたんぼ」のサブタイトルは世界農村芸術祭 http://tanbo.exblog.jp/

さて。 昨年、2014年は国連が「国際家族農業年」と定めた。

ウィキの解説 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%AE%B6%E6%97%8F%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E5%B9%B4

食料安全保障や貧困、飢餓の撲滅における家族農業や小規模農業の役割を周知する事を目的として国連が制定したそう。

このブログの読者には「そんなん今更国連ごときに言われんでも、とっくにやっとるわ!」という実践者が多いとは思うが、今更国連がそんな事言うてるそうな。

裏をかえすと、グローバリゼーションで食と農を牛耳るモンサントの遺伝子組み換えとラウンドアップや住友肥料では食の安全と貧困、飢餓は撲滅出来ないという事。 当たり前やけど、、、。 ていうか、それを前提として成り立ってるのが、グローバリゼーションなり今の資本主義の成れの果て。

だからこそ、この中山間地の三豊市高瀬町の上麻のたんぼでお米を作りながら、河野さんのアート理論は説得力アリアリ。

福岡正信さんの言われる、「人間の耕すという事が原罪だ。」という事。 宮本常一さんの本に出てくる「アイヌの民は半日鮭を獲ると、後の半日は浜辺で延々と座り続けた。」という記述。

福岡正信 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E4%BF%A1

宮本常一 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E5%B8%B8%E4%B8%80

つまり。 農なり、生活なり、食べる事は金に換えられないのだ! 農業と称し、農機具と軽油代計算して、合う合わないとか言うてる換金遊びとは次元を異にする。

生産したものを換金して消費生活を送る

という、これまた極めて当たり前の行為を繰り返す消費者である現代人には理解不能。

農なり食べ物を得る行為とは本来、自然と一体になった神秘の世界観が欠落して成り立つものでないぞ。

田んぼでお米を作るのは訳はない。 トラクターで代掻きして、田植え機で苗を植えて、除草剤やって、水管理して、コンバインで刈り取って、乾燥機にかけて籾摺りしたら玄米になる。

そういう事を言うてるんじゃあない!!

お米を作るとはどういう行為か? 食べ物を得るという事は何ごとか? 日々の生活とは一体何のためにやってるのか?

こういう事に理解が疎い者たちよ。 そういう者のために、このイベントがあるのだ。

食べるものを能率よく生産すればよい

そんな打算的なコンセプトでお米作りを何万年も続けられる訳がないぞ。

生きるための精神性が合致しない作業は奴隷のそれに過ぎん。

生きるための作業とは本来崇高なものなり。 美しく、矛盾がなく、駆け引きのない状態。

そこに入って来て逃れらない現代文明すらも、包括して咀嚼してしまえる。 それが営々と暮らしてきた田舎の伝統文化だぞ!

前置きが長いが、、、。

















焼いてるときの様子 https://www.facebook.com/photo.php?fbid=775131699273613&set=pcb.775131752606941&type=1&theater








いわゆるフェスとは一線を画する。 中心が地域のおっちゃんおばちゃん中心やし。




という、素晴らしいフィナーレを迎えた。

一年に一度しかお会い出来なくなった、ここの地元のおっちゃんおばちゃん多し。 80超えてもおじいちゃんおばあちゃんって感じなないんよ。

猪解体する時に、「うちの大鋸持って来るわ!」という現場感は「お年寄り」というレベルじゃあない。 僕らがまだまだ「若造」というレベルに甘んじる経験とスキルがある。 そこが厳然とした経験値の違い。

猪のみならず、何をやってても、一挙手一投足が、「マジっすか!!」、「急いで取ってきます!」みたいなノリになってしまう

それが嬉しいし、まだまだ彼らに学びたい。

「いつまでも元気で居てください。」みたいな気恥ずかしい文句を寄せ付けないバイタリティーが溢れてる。

これが日本中の田舎社会の先輩の姿だ!!

体力のあるうちに、我武者羅に学んどけ!!!

#アートでたんぼ

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