廃材天国ができるまで
備前焼の弟子時代
1994年 弟子入り
高校卒業後、美大受験のために2浪するも受からず、受験を終了。
美大卒業後の目標だった、伝統の陶芸の産地である備前焼に入門。
弟子生活を3年間送る。
弟子生活
一番勉強になったことは、権威と金が直結してるということ。
ハタチ過ぎの僕は戸惑った。
そこには自由やクリエイトと言った、芸術はない(今にして思えば)。
備前焼という巨大な組織の末端に所属し、自分もまたそのヒエラルキーピラミッドの上を目指さざるをえない(と思いこんでた)。
自分の中に選択肢はなく、僕も陶芸家として成功することを目標に日々励んでた。
そのころ、今のパートナーの彰子と行った「地球環境セミナー」が岐路になった。
環境問題、社会問題、政治、経済、、、と、全てに無関心だった。
「社会が悪い、政治が悪い。」とボヤくよりも、自分の好きな陶芸に打ち込む方が上だとばかりにがむしゃらだった。
その僕は徹底的に打ちのめされた。
ショック!!
一番は何も知らない自分に。
打って代わって、彰子は「目の前がバラ色になった!」と対照的な表現をした。
彼女の実家は母が昔から合成洗剤を使わずに粉石鹸で洗濯したり、ゴミ問題の事にも意識があったり、無農薬、無添加の食材を買ってたそう。
それを、大きくなるにつれ、友達にも言えないようになってたと。
僕と反対に「自分の想いを実践したり、発信していいんだ!」という境地になったのだとか。
同時期に、備前焼の組織に属さずに、コンテナハウスで生活しながら、穴窯を6基も自作して、窯の周りには菜園とハーブ園を作りながら豊かに暮らす小向氏に出会った。
小向さんの窯焚きには色んな面白い人が集まってきた。
廃材天国で年に一度「野草料理教室」の講師をして頂いてる姫さんにもそこで出会った。
今までの常識では捉えきれない人たちやライフスタイル。
そこに一気に惹かれた。
がむしゃらに「陶芸家として成功する!」と頑張ってた僕にしてみれば、「こんなやり方もアリなのか!」という目からウロコの生活。
比べるまでもなく、絶対にコッチの方が楽しいぞ!
そこには今の生活の基礎になってる「自由と責任」というキーワードの片鱗を見つけ始めたようにも思う。
1996年 香川県丸亀市の実家に戻る
僕の弟子入りと前後して、親父が教員を自主退職し、陶芸の道に入る。
以前から趣味的に窯を作り、陶芸の道を歩んでいた。
特に薪で焚く登り窯の窯焚きは10日間昼夜を問わず、焚き続ける。
そこで、親子で共に焼き締めの陶芸を始めた。
一軒目の廃材ハウス
2000年 住居、陶芸の工房、穴窯とをセルフビルド
工房は木の電柱の独立基礎での12坪の建物。
住居はアルミのサイディングでスレートの屋根。
全長7mの穴窯には3か月を要した。
キッチン、五右衛門風呂、コンポストトイレも全て自作。
水道は土地のオーナーの河野さんの家から引かせてもらった。
電気は正式に四国電力から引いた。
14か月で配管、屋内の電気工事までなんとか一人でやった。
2001年 彰子と結婚し、廃材の家での生活スタート
彰子の連れ子(当時10歳)の冬也と3人で住みはじめる。
菜園、鶏を飼ったりもし始めた。
ピザの窯も作って、自家製酵母のパンも焼いた。
陶芸の焚きは年に一度。
窯出しをする度に、会場を借りて個展も開いた。
2002年 野遊(のゆう)を自宅出産。
2004年 土歩(どっぽ)を自宅出産。
2004年 実家の農地に二軒目の廃材ハウス着工
実家の農地(現在の廃材天国)にまた廃材を集め、廃材建築で家を建て始める。
一軒目の廃材の家とは違い、木、土、石と自然素材中心の廃材ハウス。
井戸も手掘り。
ガス台を改造し、薪で料理できるようにした。
五右衛門風呂とコンポストトイレも一軒目よりははるかにバージョンアップさせて作る。
廃材のソーラーパネルを設置し、電気も自給。
2008年 廃材天国と命名し、住み始める。
住みながら、現在進行形で増築と改築を繰り返しながら快適に住めるように工夫を重ねる。
現在に至る。